高校生一万人署名活動は、韓国の被爆者や被爆二世との交流を基礎に、2003年より韓国の高校生との交流を続けています。歴史認識などを巡って日韓関係が悪化する中で、高校生同士の交流は大変意義深い民間交流となっています。
また、毎年訪問を続けている原爆被爆者福祉会館の在韓被爆者の皆さんは、日本の高校生の訪問が春を告げると楽しみにしてくださっています。
今年は、全国から21名の高校生が参加しました。
3/29 福岡発フェリーで、韓国プサンへ~船中で学習会
3/30 ハプチョンの原爆被爆者福祉会館訪問~プサンへ戻り、ホームステイ先へ
3/31 日帝強制動員歴史博物館 国連墓地 見学
韓国の被爆者お二人からお話を聞く 韓国の高校生と署名活動
夕刻、フェリーで福岡へ
4/1 福岡着 解散
【韓国訪問報告】
長崎・広島では、沢山の韓国人の方々が被爆されました。その中には、労働力が足りないという事で連れてこられた多くの少年少女もいました。彼らは、「日本では、沢山の勉強が出来る。また、お金も沢山手に入るよ。」と先生を通して騙されて来ていたそうです。 また、戦時中の朝鮮人は創氏改名と言い、名前を日本名にしなければなりませんでした。その結果、ある面で「日本人」という扱いになっていた事もあり、今現在もその動員人数は、はっきりと把握されていないとのことです。しかし、名前を日本名に変えられても防空壕の入り口には、「朝鮮人は入ってはいけない。 空襲の際は、森に行きなさい。」と書かれていた板が立てられていたそうです。その結果、原子爆弾が落とされて時、韓国人の方々が沢山負傷し亡くなられました。 それと当時、炭鉱等で十分な食事もとれず空腹に耐え、劣悪な労働環境の中で、無念な思いのまま多くの命の火が消えた事も忘れてはいけません。 原子爆弾投下後、ひどい火傷を負った方々は十分な薬も無い中を、野菜や植物を切ったり潰したりした物を傷口に貼るなどして耐え忍んだそうです。終戦を迎え、韓国へ帰国してもその状況は変わりありません。十分な治療を受けることは出来ず、放射能の影響によりむしばまれた体では思うような仕事が出来ず金銭面も厳しく生きる希望をも失いつつある中で、追い打ちをかけられるかの如く朝鮮戦争が始まりました。やっとの思いで故郷に戻り、家族との幸せな生活を余儀なくされた悲しみや苦しみは計り知れないものだったと教えて下さいました。 私は今回、原爆福祉会館、日帝強制動員歴史博物館、国連墓地なども訪問しました。その折、在韓被爆者の方々のお話を聞くとどの方も口を揃えて、「核兵器のない世界にしなくてはいけない。」と、おっしゃります。 私は、今回の韓国訪問を通して本当に多くのことを学び、感じ、考えさせられました。知らない事が多かった分、それを超えて知る事が出来ました。一発の原子爆弾がもたらす恐ろしい「真実」と、その時は一瞬だったがその時から今までの70年余り、今からも癒されず苦しみが続いている被爆者がいる。その「現実」を世界へ発信していく使命が私にはあります。その為に、『一人でも多くの方々からの署名を集めること』『その署名をジュネーブにある国連本部へ届けること』『平和集会などに積極的に参加をして発表に機会が与えてもらえるのであれば、私が直接見たり聞いたりした事を多くの人に伝える努力をします』そして、インターネットを通して『高校生一万人署名活動や高校生平和大使の活動を世界中のより多くの人に知って頂ける様に』今回のこの韓国派遣の報告書を英語に翻訳したものもアップしたいと思います。さらに、『韓国で交流を深めた高校生と、長崎・広島の原爆の日に再会し、全国の平和大使と共にその日、その場に参列される日本をはじめ世界各国の代表者へ『核兵器の廃絶と平和な世界の実現を目指す』私たちのメッセージを伝えます。『ビリョクだけどムリョクじゃない』この言葉を胸にこれからの平和活動に一層積極的に取り組んでいく事を誓い、私の報告とさせて頂きます。 今田涼加 (長崎)
英語&韓国語( English & Korean) は こちら